櫻屋むかし話

櫻屋創業者「村上嘉七」の肖像


1、「村上家」から「長澤家」へ

櫻屋の初代当主は、現在の家系である「長澤」ではなく、「村上嘉七」という人物。

文化11年(1814年)に、香島下笹村(現在の兵庫県たつの市新宮町下笹)に生まれ、天保年間に「櫻屋」の所在地に暮らしていた村上家に、家継ぎ(養子)として入った。

嘉七は、同じ香島下笹村出身の「横田庄」(文政3年生まれ)という女性を妻に迎え、嘉永3年(1850年)、嘉七が36歳の時に砂糖菓子の店を開く。屋号を「櫻屋」とし、自らも「櫻屋嘉七」と名乗った。

その後、嘉七の三男である「村上𠮷太郎」(弘化4年生まれ)が櫻屋二代目として、また、𠮷太郎の長男である「村上孝之助」(明治14年生まれ)が櫻屋三代目として跡を継いだ。

一時は繁昌した「櫻屋」であったが、明治末期から大正初期には、孝之助の低落な人格と稚劣な製菓技術により信用を失墜させ、これに絡む営業不振により借財が重むばかりで、ついには明日の生活費にも事欠く有様となり、暖簾を維持していくことが到底困難となった。

孝之助には跡を受け継ぐ息子がいなかったため、店の再建を図るため、ちょうどこの頃、別の菓子屋で奉公の傍ら、菓子の技術を錬磨していた「長澤勝治」(明治31年生まれ)に自分の娘の婿養子として迎え入れる縁談を持ち込んだが話は進まず、また勝治は、「櫻屋」の屋号を捨て、自分の出生地である兵庫県揖保郡林田村葛城(現在の兵庫県姫路市林田町奥佐見)の地名を名乗り、「葛城屋」(かづらきや)と改めることを希望したが受け入れられず、結果、縁談話は無関係とし、「櫻屋」の屋号を残して継承することを条件に、孝之助は大正12年6月に営業権、土地、建物、その他一切の付属物件を、当時のお金で2,000円で勝治に売り渡し、創業以来、72年目で創始者の村上家から長澤家へと譲渡された。

物件の受け渡しは、一日として閉店することなく平常営業のまま極めて順調に行われ、長澤勝治は、櫻屋四代目として跡を継いだ。


櫻屋四代目「長澤勝治」と妻「フミノ」の肖像

(前列左は、櫻屋五代目「長澤武」の幼少期)


2、戦時下の櫻屋

櫻屋四代目を継承した勝治は、既に地に落ちた櫻屋の信用挽回を図り、一心不乱に立ち働いた。昭和初期の不況時は、1日わずか20銭の儲けすら得ることが出来ず、生計を守るため、大根売りや茄子の苗売りに走り回った事もあった。

勝治は、和菓子において冠婚葬祭で使用する「式菓子」の技術に優れており、これが評判を呼び、次第に櫻屋を立て直していった。

昭和11年9月には家屋を、当時のお金で6,500円で新しく新築し、いよいよ菓子業を本格化させていくこととなる。しかし、昭和12年7月の盧溝橋事件を発端とする支那事変(当時の呼び名)により日本は戦争へと突き進み、激化に伴い、当時の政府は勅令を以って国家総動員法を発布。物価統制令、食糧管理令、経済統制令、企業整備令をはじめ、無数の法令を続発して国家の自由産業を規制し、全ての労資を結集して唯戦争完遂のための軍需産業へと傾注していった。

町の灯りはすっかり消え去り、日本全国が暗黒化。菓子業界においても原料の入手が全面ストップとなり、多くの同業者が製菓業に見切りをつけて脱落し、転廃業して業界を去っていったのもこの頃であった。櫻屋においても営業の道を閉ざされ、勝治は当時の軍指定工場に徴用され軍需生産に従事し、櫻屋は廃業寸前の長い休業を余儀なくされた。

昭和20年の終戦以降、勝治は長男「武」と共に菓子業に復帰するものの、戦後の疲弊による食糧事情を調整し、家族の生活を守るため、明けても暮れても食する物を探し求めることが勝治の毎日の仕事となっていた。

しかし、あまりにも長かった戦後の窮乏生活と働きづめですっかり体調を崩してしまい、戦時戦後の経済疲弊も未だ回復せぬ昭和27年、まだ未成年であった多くの子供を残して他界。勝治の長男である「長澤武」(大正13年生まれ)が家業の跡を継ぎ、櫻屋五代目を襲名した。


3、戦後の復興と櫻屋

櫻屋五代目の武は、7人兄弟の長男として生まれ、幼少期から家業の手伝いに従事していた。母親が体が弱く、寝こみがちだったこともあり、学校への登校中に呼び戻されて家業を手伝ったことも少なくなかった。学業と和菓子製造を両立し、昭和16年の新宮町立新宮青年学校卒業後は家業に専念。勝治の指導のもと、菓子技術の習得に打ち込んだ。

しかし、日本が戦争の道へと突き進むにつれて櫻屋も営業を閉ざされ、昭和18年2月、武は軍の命令に依って神戸製鋼所の山手工場へ徴用工員として入社し、兵器の生産に従事した。

昭和19年4月には神戸市の国民学校での徴兵検査に合格し徴用工員を解除され、昭和20年1月、陸軍現役兵として姫路中部第四六部隊に入隊。5月には戦闘編成護路二二七〇六部隊への編入を命ぜられ宮崎県都城市に駐屯し、8月15日、都城の山中の壕の中で終戦をむかえた。

敗戦の日本の様相は悲惨さが極限に達し、当時の記憶として「とても筆舌に表せられぬものであった」と語っている。

都城市に駐屯していた頃の上官が大阪の菓子屋だったことが縁で、昭和20年9月の帰郷後は、元上官に菓子技術を学びながら父勝治と共に生活の復興と櫻屋の再建に奮起した。

しかし、戦後の経済疲弊はあまりに長く、昭和27年に勝治が他界してからは、未成年である多くの兄弟の親代わりとなり、一家の大黒柱となった。

宿命的な責任の遂行だったとはいえ、親亡き後の多くの兄弟姉妹の模範となり、世間から嘲笑や誹謗されぬよう家族の円満をひたすらに願い、「誠実一筋」に波乱の生活に耐える日々を送った。

櫻屋の経営も「質素倹約」の精神で努力の日々を送り、子供相手の駄菓子販売の時代から冠婚葬祭の式菓子へと幅を広げ、さらにはロールケーキの洋菓子など、様々なジャンルの菓子製造に取り組んだ。

昭和30年頃には、のちに櫻屋の代表銘菓となる最中(もなか)「揖保乃鮎」の販売を開始。市内を流れる「揖保川」は、当時から鮎の漁場として名高く、周辺の菓子屋では鮎を模した最中の菓子が流行しており、武もこの流行りにのって販売を開始したのだが、どこの菓子屋も同じような鮎の形をしており見た目に特長がないため、武は独自の配合を研究し、最中の餡を練り上げる際に、一般的な常識とは外れた配合と製造工程を生み出した。これが評判となり、徐々に櫻屋は広く世に知られるようになった。

家族円満を常に第一に考え、奮励努力を積み重ねた菓子職人としての人生を歩み、平成9年1月14日、借入金その他、借財なしの健全財政で、長男「啓一」(昭和24年生まれ)に櫻屋の営業権を含む全ての家督を相続した。

第一線からの隠居後は、妻ミサ子と穏やかな余生を送り、孫やひ孫に囲まれて賑やかな晩年を過ごしたが、令和元年12月27日、享年96歳の天寿を全うし死去。